おはようございます。
基元節まで後7日です。
様々な精誠をもって迎えましょう。
精誠を尽くした分さらに成長します。
天一国2年天歴1月6日
今日のみ言
(日本宣教出発の状況)
-崔奉春(チェ・ボンチュン) がクッパップ一杯を全て食べるまで、 私は彼の前で見守り座っていました。
彼を抱いて、 わあわあと声に出して泣きたかったのですが、 そうすることができませんでした。 日本警察に打たれて満身創痍になって帰ってきた彼が、 やっとご飯がのどに通る姿を見守る心は地獄でした。
それは、 もしかしたら彼がこの世の中で最後に味わう温かい食事かも知れな いことでした。 彼を再び日本に送らなければならなかったからです。(「 命を懸けても行く道は行く」)
世界情勢から見ても神様の摂理から見ても日本宣教が急務だと感じ られた文先生は、その計画を準備した上で、 崔奉春氏を甲寺に呼びました。
そして、「お前は今すぐ玄界灘を渡らなければならない。 死ぬ前には帰ってくることができない」と、 出し抜けに厳命を下したのです。
崔氏はたった一言「はい」と返事をしただけで、
「どのように宣教を始めるか、日本でどう生活するか」 などということは一切聞きもしませんでした。
しかし、宣教は過酷な道でした。
当時、日本と韓国には正式な国交もなかったのです。
その日本への宣教は、「密航」を意味していました。
崔宣教師は命を懸けて密航船に乗りましたが、 日本に着くやいなや、すぐに逮捕され、即座に送還されました。
崔宣教師は、元来、豪胆な男です。その彼が、 送還されてお父様の前に現れた時、恐ろしさにたじろぎ、 今にも涙がこぼれそうな目をしていました。
酷い拷問で腫れ上がった額には、 紫の血のあざがまだらに残っていました。 髪の毛が一握り抜かれて、頭皮が白くさらけ出ていました。
お父様はその彼の頭をそっと撫でるだけで、 人間的な慰めの言葉を一言もかけず、ただ、 作りたてのクッパを彼の前に置きました。
崔宣教師は、空腹であるにもかかわらず、 すぐにスプーンを持つことができませんでした。 み言葉を伝えることもできないまま帰ってきた宣教師は、 身の置きどころもなかったのでしょう。
宣教師を送り出すために、 お父様は150万ウォンを借金して準備されました。
食口たちは血を売りました。文字通り「血の代価」でした。
クッパップを食べ終わると、 お父様は崔宣教師を連れて甲寺の裏手に上がりました。 文先生の口からどんな言葉が出るか。 宣教師は恐ろしさに震えました。
「今夜また麗水(Yea Su)に行って船に乗りなさい。 お前が10回日本の警察に捕まったとしても、 与えられた道は行くしかない。 1日でも虚しく浪費することはできない」すると、 崔宣教師はその場に座り込んで泣き始めました。
「先生、どうしてそのようにされるのですか? 私は行けません。恐ろしくて二度と行けないのです」
ここから、2人の間に激しい押し問答が繰り返されました。
「絶対に行けません」
「行かなければならない。早く行きなさい」
容赦なく宣教師を急き立てながら、文先生の心は死にそうでした。 宣教師の胸の内も、周辺の状況も、 文先生には痛いほど分かっていました。
しかし、天の時は人間が勝手に押したり引いたりできないことを、 あまりにもよく知っておられたのです。
日本への宣教は生死をかけた3年の刻苦の挙句、 3回目の密航で初めて一点を突破しました。
その結果、東京早稲田の地に初めてみ言葉の種が蒔かれ、 今日の日本統一教会の礎が築かれたのです。
教区長の説教を聞きながら、この話は、 私たちにとって自分の生命の最も深いルーツを教えてくれる、 極めて貴重な歴史の真相だと感じました。
韓国の食口たちが血を売って工面した宣教費。
そして何より、お父様ご自身が牢獄の苦難を経て、 霊肉の痛みを背負いながら、甲寺で食事もせず、 ひたすら宣教師の成功を祈り続けられた精誠。
甲寺に居留しておられた間、 毎朝早朝に寺の裏山に登って祈る文先生の姿を見ていた僧侶がいま す。
「毎朝、あのように一人静かに山に登って祈るあの青年は、 一体誰なのか? 何を祈っているのか?」
その姿があまりにも深く脳裏に焼きつき、数十年後、 その青年を訪ねて清平まで来られたと聞きました。
「私の今の命は、何に由来しているのか? 私が賜った祝福の価値はどれほどの大きさなのか? 私はどのように生きるべきか?」
実はその種の要素をそのまま実体化しなければならない。 そのことを、深く考えさせられたみ言葉でした。
投稿日:1970年1月1日