おはようございます。
□祭物は平和的な立場において捧げるのではなく、 常に第一線において捧げるのが原則である。
天一国2年天歴5月24日
今日の訓読のみ言
教派ではない教会、教会でもない教会
1953年に私は釜山からソウルに上がってきました。翌年5月、 奨(チャン)忠壇(チュンダン)公園に近い北鶴(プカク)洞( トン)のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」 の看板を掲げました。このような名称にした理由は、 いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、 もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。
「世界基督教」は古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、 「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」 は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「 神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、 神の願う理想世界をつくっていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。 連合は二つが集まったものですが、統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった「 統一教会」は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、 大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。
とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。 教会とは文字どおり「教える会」です。宗教は「宗となる教え」ですから、 教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。 本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。
にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。 私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。 私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、 自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、 国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。 いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。
仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、 いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、 教会は教会でない者と区別されます。 一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。 それは、私が夢見ることでもなく、 私の行くべき道でもありません。国を生かし、 世界を生かすために、 もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、 今でも私はそうすることができます。
投稿日:1970年1月1日