- 1970年1月1日
-
愛して伝道しなければならない。そうすれば神は、『あなたは三六〇軒ホームチャーチを無条件で愛し尽くした。

天一国2年天歴2月22日
今日のみ言葉
天国に入る絶対必要条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生であり、すべての創造の平和理想的モデルとなる、神様を中心として平和に暮らす新しい家庭の人生です。
人類は今、誰もが真の家庭を探し立てることのできる道が大きく開かれました。皆様、「共にために生きる人生」の典型は家庭です。真の父母と真の子女は真の愛と尊敬で、真の夫婦は相互信頼と真の愛を土台として、兄弟姉妹はお互いに信じて助け合いながら、一つになって暮らす家庭が、正に真のモデル的理想家庭なのです。真の愛の根に、真の愛の幹が生じて、真の愛の実を結ばせる、真の家庭を取り戻さなければならないという意味です。
このように、真の祖父母、真の父母、真の孫と孫娘を中心として、三代が一つの家庭で、永存される神様に侍って暮らす天一国家庭を探し立てることが、氏族的メシヤの責任であり、平和大使の使命であり、神様の願いであることを知らなければなりません。
- 1970年1月1日
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愛して伝道しなければならない。そうすれば神は、『あなたは三六〇軒ホームチャーチを無条件で愛し尽くした。

天一国2年天歴2月22日
今日のみ言葉
天国に入る絶対必要条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生であり、すべての創造の平和理想的モデルとなる、神様を中心として平和に暮らす新しい家庭の人生です。
人類は今、誰もが真の家庭を探し立てることのできる道が大きく開かれました。皆様、「共にために生きる人生」の典型は家庭です。真の父母と真の子女は真の愛と尊敬で、真の夫婦は相互信頼と真の愛を土台として、兄弟姉妹はお互いに信じて助け合いながら、一つになって暮らす家庭が、正に真のモデル的理想家庭なのです。真の愛の根に、真の愛の幹が生じて、真の愛の実を結ばせる、真の家庭を取り戻さなければならないという意味です。
このように、真の祖父母、真の父母、真の孫と孫娘を中心として、三代が一つの家庭で、永存される神様に侍って暮らす天一国家庭を探し立てることが、氏族的メシヤの責任であり、平和大使の使命であり、神様の願いであることを知らなければなりません。
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
◇我々は絶対者の代わりに、真の父母の代わりに、真の主人の代わりに責任をもち、勝利の勇士とならなければならない。
天一国2年天歴2月21日
今日のみ言葉
◇私たちの家庭でも同じです。神様の立場にいる父母は真の愛を中心として完全投入、絶対投入する。家庭という環境がなければ、どうして私たちがこのような絶対的基準の“私”をさがし、縦横と前後に完全な“私たち”を敢えて考えてみることができるでしょうか? 家庭こそ愛と平和と幸福の揺籃なのです。
皆様、私たちは世俗的な名誉、知識、権力、財力に恋恋としたり、また、それらに引きずり回される愚を犯してはならないのです。この世にいくら優れて有名な者がいたとしても、彼が、心と体が完全にひとつになった位置で“私”をさがし出せず、天と縦的に連結されていなければ、何の役に立ちますか? 天が彼を胸に抱いて“私たち”だと呼んでくれなければ、神様の創造理想である平和世界の実現と何の関係がありますか?

皆様は真の“私”をどこでさがしますか? 為に生きる真の愛を実践する生活でこそ可能です。自分を完全にゼロにして否定し、家庭のために、国家のために、世界人類のために、そして神様のために生きるようになれば、真の“私”は自動的に捜し出されるのです。これがまさしく復帰摂理、救援摂理の道を歩んでいる人間の避けられない運命の道なのです。
私たちは寝ても覚めても理想家庭完成のために生きるべきなのです。神様の創造本然の世界である平和世界、神様が千年、万年、待ってこられた理想家庭だけ立てれば、そこが他ならぬ地上天国の出発地になるのです。そこで、かわいそうな神様の恨を解くことができるようになるのです。
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
◇我々は絶対者の代わりに、真の父母の代わりに、真の主人の代わりに責任をもち、勝利の勇士とならなければならない。
天一国2年天歴2月21日
今日のみ言葉
◇私たちの家庭でも同じです。神様の立場にいる父母は真の愛を中心として完全投入、絶対投入する。家庭という環境がなければ、どうして私たちがこのような絶対的基準の“私”をさがし、縦横と前後に完全な“私たち”を敢えて考えてみることができるでしょうか? 家庭こそ愛と平和と幸福の揺籃なのです。
皆様、私たちは世俗的な名誉、知識、権力、財力に恋恋としたり、また、それらに引きずり回される愚を犯してはならないのです。この世にいくら優れて有名な者がいたとしても、彼が、心と体が完全にひとつになった位置で“私”をさがし出せず、天と縦的に連結されていなければ、何の役に立ちますか? 天が彼を胸に抱いて“私たち”だと呼んでくれなければ、神様の創造理想である平和世界の実現と何の関係がありますか?

皆様は真の“私”をどこでさがしますか? 為に生きる真の愛を実践する生活でこそ可能です。自分を完全にゼロにして否定し、家庭のために、国家のために、世界人類のために、そして神様のために生きるようになれば、真の“私”は自動的に捜し出されるのです。これがまさしく復帰摂理、救援摂理の道を歩んでいる人間の避けられない運命の道なのです。
私たちは寝ても覚めても理想家庭完成のために生きるべきなのです。神様の創造本然の世界である平和世界、神様が千年、万年、待ってこられた理想家庭だけ立てれば、そこが他ならぬ地上天国の出発地になるのです。そこで、かわいそうな神様の恨を解くことができるようになるのです。
- 1970年1月1日
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おはようございます。
□我々は絶対者の代わりに、真の父母の代わりに、真の主人の代わりに責任をもち、勝利の勇士とならなければならない。
天一国2年天歴2月21日
今日のみ言葉
□私たちの家庭でも同じです。神様の立場にいる父母は真の愛を中心として完全投入、絶対投入する。家庭という環境がなければ、どうして私たちがこのような絶対的基準の“私”をさがし、縦横と前後に完全な“私たち”を敢えて考えてみることができるでしょうか? 家庭こそ愛と平和と幸福の揺籃なのです。
皆様、私たちは世俗的な名誉、知識、権力、財力に恋恋としたり、また、それらに引きずり回される愚を犯してはならないのです。この世にいくら優れて有名な者がいたとしても、彼が、心と体が完全にひとつになった位置で“私”をさがし出せず、天と縦的に連結されていなければ、何の役に立ちますか? 天が彼を胸に抱いて“私たち”だと呼んでくれなければ、神様の創造理想である平和世界の実現と何の関係がありますか?
皆様は真の“私”をどこでさがしますか? 為に生きる真の愛を実践する生活でこそ可能です。自分を完全にゼロにして否定し、家庭のために、国家のために、世界人類のために、そして神様のために生きるようになれば、真の“私”は自動的に捜し出されるのです。これがまさしく復帰摂理、救援摂理の道を歩んでいる人間の避けられない運命の道なのです。
私たちは寝ても覚めても理想家庭完成のために生きるべきなのです。神様の創造本然の世界である平和世界、神様が千年、万年、待ってこられた理想家庭だけ立てれば、そこが他ならぬ地上天国の出発地になるのです。そこで、かわいそうな神様の恨を解くことができるようになるのです。
- 1970年1月1日
-
おはようございます
正しい考えを多くし、実践を多くなせば、人より先に進むようになる。考えてばかりいて滅びた人は多いが、実践をしていて滅びた人はいない。
天一国2年天歴2月20日
今日のみ言葉
□神が私たちに与えた使命を胸中に刻んで、第一線に出なければなりません。私たちが躊躇し、ためらえば、人類はますます抜け出せない苦境に処するようになります。世界を一度、見渡してください。皆様のほかに誰が、本当に、今日の人類が処したこの危機を懸念し、また、解決できると思いますか?
皆様、神様の創造理想を完成するとは、果たして、どういうことだと思いますか? 人間始祖の堕落によって人類は神様の真の愛、真の生命、真の血統とは何ら関係がない、サタンの偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の子孫となり、偽りの種に転落してしまいました。これが人類の悲劇であり、いまだに私たちが解決すべき最も大きな課題です。
成約時代には父母を通して覚醒させてきたのです。それでは、何を覚醒させてきたのでしょうか? 私たちは果たして、どんな根拠で“私”だと主張し得る資格者となったのでしょうか? 聞きたくない話かもしれませんが、人類は今日まで、堕落した子孫として真の“私”の価値と位置をさがし得ませんでした。神様は人間を創造され、ともに“ウリ(私たち)”という言葉で真の家庭を立てて、その家庭を拡大発展させて、ご自身の創造理想である平和世界をこの地上に実現しようとされたのです。しかし、人間が堕落によって真の“私”の位置をさがし得なかったために、神様も“私たち”という言葉を使ってみることができなかったのです。神様自身が“私のもの”、“私の子”だと言える、そんな関係を結び得なかったのです。したがって、私たちが持っている“私”という概念は、神様の本来の創造理想とは、何ら関係がないものなので、私たちは自らを完全否定すべきなのです。
私たちはまず、個人として完全な“私”の位置をさがさなければなりません。ところが、それは自分をゼロにして完全否定するしかありません。その位置であってこそ、心と体の完全統一をなし得るためです。考えてみてください。天と地が公認し得る完全な“私”をさがし立てて、完全な家庭をつくり、その上に完全な国家、世界をつくる前に、どうして神様が、不完全な輩である私たちをご自身の真の愛、真の生命、真の血統圏に立てて、“私たち”だと呼ぶことができるでしょうか?
私の心と体が完全にひとつに統一されていると、自信を持って叫ぶことができるかと自問してみるべきです。そこに対して確実に答えられないとすれば、私たちはいまだに行くべき道が遠いということを自認するほかないのです。
神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体なので、永遠に不可分な一体的基準に立っている、そんな真の息子・娘をさがしてこられたのです。
- 1970年1月1日
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おはようございます
正しい考えを多くし、実践を多くなせば、人より先に進むようになる。考えてばかりいて滅びた人は多いが、実践をしていて滅びた人はいない。
天一国2年天歴2月20日
今日のみ言葉
□神が私たちに与えた使命を胸中に刻んで、第一線に出なければなりません。私たちが躊躇し、ためらえば、人類はますます抜け出せない苦境に処するようになります。世界を一度、見渡してください。皆様のほかに誰が、本当に、今日の人類が処したこの危機を懸念し、また、解決できると思いますか?
皆様、神様の創造理想を完成するとは、果たして、どういうことだと思いますか? 人間始祖の堕落によって人類は神様の真の愛、真の生命、真の血統とは何ら関係がない、サタンの偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の子孫となり、偽りの種に転落してしまいました。これが人類の悲劇であり、いまだに私たちが解決すべき最も大きな課題です。
成約時代には父母を通して覚醒させてきたのです。それでは、何を覚醒させてきたのでしょうか? 私たちは果たして、どんな根拠で“私”だと主張し得る資格者となったのでしょうか? 聞きたくない話かもしれませんが、人類は今日まで、堕落した子孫として真の“私”の価値と位置をさがし得ませんでした。神様は人間を創造され、ともに“ウリ(私たち)”という言葉で真の家庭を立てて、その家庭を拡大発展させて、ご自身の創造理想である平和世界をこの地上に実現しようとされたのです。しかし、人間が堕落によって真の“私”の位置をさがし得なかったために、神様も“私たち”という言葉を使ってみることができなかったのです。神様自身が“私のもの”、“私の子”だと言える、そんな関係を結び得なかったのです。したがって、私たちが持っている“私”という概念は、神様の本来の創造理想とは、何ら関係がないものなので、私たちは自らを完全否定すべきなのです。
私たちはまず、個人として完全な“私”の位置をさがさなければなりません。ところが、それは自分をゼロにして完全否定するしかありません。その位置であってこそ、心と体の完全統一をなし得るためです。考えてみてください。天と地が公認し得る完全な“私”をさがし立てて、完全な家庭をつくり、その上に完全な国家、世界をつくる前に、どうして神様が、不完全な輩である私たちをご自身の真の愛、真の生命、真の血統圏に立てて、“私たち”だと呼ぶことができるでしょうか?
私の心と体が完全にひとつに統一されていると、自信を持って叫ぶことができるかと自問してみるべきです。そこに対して確実に答えられないとすれば、私たちはいまだに行くべき道が遠いということを自認するほかないのです。
神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体なので、永遠に不可分な一体的基準に立っている、そんな真の息子・娘をさがしてこられたのです。
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
「私達がいつも神の道を勝利してゆく中にあって一番私達を妨げるものは疎外感(愛の減少感)です。
神は人間を愛する故に救われなければならない。救う為には、神は疎外感の湧き起こる所に導こうとするのです。
天一国2年天歴2月19日
今日のみ言葉
人には愛があります。しかし、愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。
このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。
父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。
愛は、自分自身から始まるのではなく、相対から始まるのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。
愛はどこから出てくると言いましたか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ愛の作用もその分早くなります。
相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。「愛」という名詞(言葉)は相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができないのです。
愛の根拠地は「私」ではありません。「愛は私からだ」というのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。
今まで、妻は妻なりに、夫は夫なりに自分が中心だと言って、お互いに「私のために尽くしなさい」というので破綻が生じたのです。愛の根拠地は「私」にあるのではなく相対にあるので、その愛を「私」がもつためには、「私」自身がその愛の前に犠牲にならなければなりません。
愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他のところからは見いだすことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見いだすことができるので、神様は愛をしっかりつかんでいらっしゃるのです。
- 1970年1月1日
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おはようございます。
「私達がいつも神の道を勝利してゆく中にあって一番私達を妨げるものは疎外感(愛の減少感)です。
神は人間を愛する故に救われなければならない。救う為には、神は疎外感の湧き起こる所に導こうとするのです。
天一国2年天歴2月19日
今日のみ言葉
人には愛があります。しかし、愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。
このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。
父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。
愛は、自分自身から始まるのではなく、相対から始まるのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。
愛はどこから出てくると言いましたか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ愛の作用もその分早くなります。
相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。「愛」という名詞(言葉)は相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができないのです。
愛の根拠地は「私」ではありません。「愛は私からだ」というのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。
今まで、妻は妻なりに、夫は夫なりに自分が中心だと言って、お互いに「私のために尽くしなさい」というので破綻が生じたのです。愛の根拠地は「私」にあるのではなく相対にあるので、その愛を「私」がもつためには、「私」自身がその愛の前に犠牲にならなければなりません。
愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他のところからは見いだすことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見いだすことができるので、神様は愛をしっかりつかんでいらっしゃるのです。
- 1970年1月1日
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おはようございます。
今日はみんなの心を一つにして、天の父母様に近くなって行きましょう。
「心の中で、いかに神と近づくかがすべてである。」
天一国2年天歴2月18日
今日のみ言葉
創造本然の男女の愛
愛は、一人では成されないのです。愛は、どこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく、相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「ために生きる」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのですが、それを受け入れようとすれば、それを貴く思い敬わなければならないという「ために生きる哲学」を実践しなければならないのです。
人には愛があります。しかし、愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。
このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。
父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。
愛は、自分自身から始まるのではなく、相対から始まるのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。