
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
今日も一期一会の心で過ごしましょう。
天一国2年天歴2月10日
今日のみ言
真なる愛だけが体と心を一つにする。
今、世の中では、「この世界は一つの世界になるべきだ。統一の世界であるべきだ。平和の世界であるべきだ。」こんな言葉をたくさん言います。
では、一つになるには、力を与えながら「やあ」と言うと「やあ」こうなって、力で一つにするのか? でなければ、何かの組織力を持って、この頃は何かの組織社会だから、強力な組織力で一つにするのか? その次には、ある思想を中心として一つにするのか? そうできる一面はあるかもしれませんが、それは我々の本性として「体と心が全部歓迎をして、これでなければだめだというそのようなものには絶対なれない。」というのです。体と心が「これはいい。このようなものは私が願うものだ。これは永遠な理想の基準で私が侍って暮らすことができる。」と言えるようになっていないのです。それはお金でもだめだし、知識でもだめで、何でもだめなのです。
では、一つになりうる根本が何か? 高い人や低い人や、東西洋はもちろんであり、黄色人や白人や黒人や、どの国でもみな好みうるものが何か? それは愛です。真なる愛で一つになること以外にはないということが、最後の結論であることを、皆さんは知るべきです。そのようですか?(はい)。自分の体と心が親しくなって、一つになって、喜びうることは・・・。お金を見て体と心が喜びますか? それは永遠に喜べないのです。
我々の五官が全部集中して、一つにさっと固まって、笑って踊りを踊りうることは真なる愛の理想以外にはないという結論です。それをだれが否定しますか? 否定すれば、それは愛ではありません。それゆえ、霊と肉が我々の心と体がすべて一つになりえ、ともに共栄しうることは、真なる愛の境地以外にはないという結論を下すことができるのです。(91―141)
霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようになっていません。それゆえ、真の愛の起源を見出さずしてはこれが一つにならないのです。それが最も理論的だということです。その場を皆さんが越えていって、天が祝福してくれる、その祝福を願って行かなければならないのです。(91―184)
皆さんの体と心が、神様の愛を中心として生きていかなければなりません。ご飯を食べるときも、神様の愛を中心として食べ、考えと行動をするときも、神様の愛を中心としてすべきです。体と心が神様の愛を中心として生きる人にならなければなりません。しかし、皆さんの体と心が怨讐になっています。神様の愛を中心として根を下ろさなければならないのに、サタンの愛で先に根を下ろしたためです。そこから体と心が分かれて戦っています。(1986・2・1)
本来は、人間の心と体に神様の愛が入って、内外に矛盾や相入れないこと、または闘争がない結果をもたらさなければなりませんでした。しかし、人間が神様から離れていって、サタンを中心として外的に愛したのが動機になって、体と心が相入れない立場で闘争する結果がもたらされたのです。そうして、外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる、神様の愛に背いて出てくる歴史の結果がもたらされたのです。ですから、外的な愛、すなわち、サタンの愛を除去して、そこに本然の内的な愛である神様の愛を相続して、体と心を糾合させなければなりません。そうしてこそ、ここから統一が起こるのです。(37―179)
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
今日も一期一会の心で過ごしましょう。
天一国2年天歴2月10日
今日のみ言
真なる愛だけが体と心を一つにする。
今、世の中では、「この世界は一つの世界になるべきだ。統一の世界であるべきだ。平和の世界であるべきだ。」こんな言葉をたくさん言います。
では、一つになるには、力を与えながら「やあ」と言うと「やあ」こうなって、力で一つにするのか? でなければ、何かの組織力を持って、この頃は何かの組織社会だから、強力な組織力で一つにするのか? その次には、ある思想を中心として一つにするのか? そうできる一面はあるかもしれませんが、それは我々の本性として「体と心が全部歓迎をして、これでなければだめだというそのようなものには絶対なれない。」というのです。体と心が「これはいい。このようなものは私が願うものだ。これは永遠な理想の基準で私が侍って暮らすことができる。」と言えるようになっていないのです。それはお金でもだめだし、知識でもだめで、何でもだめなのです。
では、一つになりうる根本が何か? 高い人や低い人や、東西洋はもちろんであり、黄色人や白人や黒人や、どの国でもみな好みうるものが何か? それは愛です。真なる愛で一つになること以外にはないということが、最後の結論であることを、皆さんは知るべきです。そのようですか?(はい)。自分の体と心が親しくなって、一つになって、喜びうることは・・・。お金を見て体と心が喜びますか? それは永遠に喜べないのです。
我々の五官が全部集中して、一つにさっと固まって、笑って踊りを踊りうることは真なる愛の理想以外にはないという結論です。それをだれが否定しますか? 否定すれば、それは愛ではありません。それゆえ、霊と肉が我々の心と体がすべて一つになりえ、ともに共栄しうることは、真なる愛の境地以外にはないという結論を下すことができるのです。(91―141)
霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようになっていません。それゆえ、真の愛の起源を見出さずしてはこれが一つにならないのです。それが最も理論的だということです。その場を皆さんが越えていって、天が祝福してくれる、その祝福を願って行かなければならないのです。(91―184)
皆さんの体と心が、神様の愛を中心として生きていかなければなりません。ご飯を食べるときも、神様の愛を中心として食べ、考えと行動をするときも、神様の愛を中心としてすべきです。体と心が神様の愛を中心として生きる人にならなければなりません。しかし、皆さんの体と心が怨讐になっています。神様の愛を中心として根を下ろさなければならないのに、サタンの愛で先に根を下ろしたためです。そこから体と心が分かれて戦っています。(1986・2・1)
本来は、人間の心と体に神様の愛が入って、内外に矛盾や相入れないこと、または闘争がない結果をもたらさなければなりませんでした。しかし、人間が神様から離れていって、サタンを中心として外的に愛したのが動機になって、体と心が相入れない立場で闘争する結果がもたらされたのです。そうして、外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる、神様の愛に背いて出てくる歴史の結果がもたらされたのです。ですから、外的な愛、すなわち、サタンの愛を除去して、そこに本然の内的な愛である神様の愛を相続して、体と心を糾合させなければなりません。そうしてこそ、ここから統一が起こるのです。(37―179)
- 1970年1月1日
-
アンニンハセヨ。
おはようございます。3月も早く9日になりました。一つ一つ予定を計画を持ってやりましょう。
土台は浄化精誠、関係結び、コーチングであります
天一国2年天歴2月9日
今日のみ言
祝福をしてあげるということは、天の全権を委譲してあげることを意味します。
祝福は、天国の門を開くことであり、天国は、子女をもって家庭が入っていく所です。
祝福とは、永遠の宝物です。子孫万代を今から出発するという一つの契約です。ですから、それを汚す時には一族が関係します。イエス様を十字架につけることによって、一国家が関連することになったように、一族に連結されます。
祝福とは、歴史が追求してきた万民解放の門を開く鍵なのです。
祝福を受けるということは、とてつもない事実です。祝福を受けた人は、神様の代わりに「私が定めれば天宙も定める」という心で、主人として振る舞える人にならなければなりません。このような条件が備わってこそ、天が私たちを中心として生活理念を立てることができるのです。
神様の祝福は、絶対的に公的なものです。その祝福は、ある個人だけのためのものではなく、またある家庭だけの、ある国家だけの、ある世界だけのためのものではありません。神様の祝福は、宇宙全体のためのものです。
「祝福」という言葉は、福を祈るということです。祝願する(祈る、願うという意味)の「祝」という字です。福を祈るのに、どんな福が一番貴いのでしょうか。愛の福が一番貴いのです。統一教会は、そのような意味で「祝福」という言葉を使うのです。一番貴いもの、宇宙の公約を代表した一番核心的な起源が、男性と女性が結合するところから始まるので、その祝福が一番偉大だというのです。
その偉大なものが福を祈れば最高の福になるので、統一教会では結婚式を「祝福」と言います。初めて来た人々は、こういうことを知らなければなりません。統一教会で「祝福を受けた」というのは、今日この世で「福を受けた」というのとは違います。神様の立会いのもとに、真の父母を通じて結婚式をしてもらったということです。
- 1970年1月1日
-
アンニンハセヨ。
おはようございます。3月も早く9日になりました。一つ一つ予定を計画を持ってやりましょう。
土台は浄化精誠、関係結び、コーチングであります
天一国2年天歴2月9日
今日のみ言
祝福をしてあげるということは、天の全権を委譲してあげることを意味します。
祝福は、天国の門を開くことであり、天国は、子女をもって家庭が入っていく所です。
祝福とは、永遠の宝物です。子孫万代を今から出発するという一つの契約です。ですから、それを汚す時には一族が関係します。イエス様を十字架につけることによって、一国家が関連することになったように、一族に連結されます。
祝福とは、歴史が追求してきた万民解放の門を開く鍵なのです。
祝福を受けるということは、とてつもない事実です。祝福を受けた人は、神様の代わりに「私が定めれば天宙も定める」という心で、主人として振る舞える人にならなければなりません。このような条件が備わってこそ、天が私たちを中心として生活理念を立てることができるのです。
神様の祝福は、絶対的に公的なものです。その祝福は、ある個人だけのためのものではなく、またある家庭だけの、ある国家だけの、ある世界だけのためのものではありません。神様の祝福は、宇宙全体のためのものです。
「祝福」という言葉は、福を祈るということです。祝願する(祈る、願うという意味)の「祝」という字です。福を祈るのに、どんな福が一番貴いのでしょうか。愛の福が一番貴いのです。統一教会は、そのような意味で「祝福」という言葉を使うのです。一番貴いもの、宇宙の公約を代表した一番核心的な起源が、男性と女性が結合するところから始まるので、その祝福が一番偉大だというのです。
その偉大なものが福を祈れば最高の福になるので、統一教会では結婚式を「祝福」と言います。初めて来た人々は、こういうことを知らなければなりません。統一教会で「祝福を受けた」というのは、今日この世で「福を受けた」というのとは違います。神様の立会いのもとに、真の父母を通じて結婚式をしてもらったということです。
- 1970年1月1日
-
アンニンハセヨ。
おはようございます。3月も早く9日になりました。一つ一つ予定を計画を持ってやりましょう。
土台は浄化精誠、関係結び、コーチングであります
天一国2年天歴2月9日
今日のみ言
祝福をしてあげるということは、天の全権を委譲してあげることを意味します。
祝福は、天国の門を開くことであり、天国は、子女をもって家庭が入っていく所です。
祝福とは、永遠の宝物です。子孫万代を今から出発するという一つの契約です。ですから、それを汚す時には一族が関係します。イエス様を十字架につけることによって、一国家が関連することになったように、一族に連結されます。
祝福とは、歴史が追求してきた万民解放の門を開く鍵なのです。
祝福を受けるということは、とてつもない事実です。祝福を受けた人は、神様の代わりに「私が定めれば天宙も定める」という心で、主人として振る舞える人にならなければなりません。このような条件が備わってこそ、天が私たちを中心として生活理念を立てることができるのです。
神様の祝福は、絶対的に公的なものです。その祝福は、ある個人だけのためのものではなく、またある家庭だけの、ある国家だけの、ある世界だけのためのものではありません。神様の祝福は、宇宙全体のためのものです。
「祝福」という言葉は、福を祈るということです。祝願する(祈る、願うという意味)の「祝」という字です。福を祈るのに、どんな福が一番貴いのでしょうか。愛の福が一番貴いのです。統一教会は、そのような意味で「祝福」という言葉を使うのです。一番貴いもの、宇宙の公約を代表した一番核心的な起源が、男性と女性が結合するところから始まるので、その祝福が一番偉大だというのです。
その偉大なものが福を祈れば最高の福になるので、統一教会では結婚式を「祝福」と言います。初めて来た人々は、こういうことを知らなければなりません。統一教会で「祝福を受けた」というのは、今日この世で「福を受けた」というのとは違います。神様の立会いのもとに、真の父母を通じて結婚式をしてもらったということです。
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
今日はなにをしないといけないかをキチント確認し、順序良く一つずつ。
天一国2年天歴2月8日
今日のみ言
マタイ福音書6:21
『あなたの宝のある所には、心もあるからである』
一番投入して犠牲になる者が中心者になる
個人が、家庭に犠牲することを願う人はいますか? そうしなければ国が滅びます。七人家族であれば、七人のために犠牲になって、それが間違っていたとすれば大変なことです。
七人共々に、みんなが自分を尊重します。価値からいっても、平等です。七人を殺して自分一人がよくなるというのは悪魔です。それは地獄に直行する悪魔です。自分が犠牲になることによって、七人がみんなよくなるのです。七人共々に犠牲になるとすれば、その家が直行、直立で、縦的にすーっと上がるのです。垂直に飛び上がるのです。
こういう原則から見た場合に、当然、個人が七人の人々の前に犠牲になるということは、それは道徳社会の公的な道として、誰もそれには反対する者はいません。そのように犠牲になり、為に生きた場合には、神様の再創造の道、神様が成されてきた再創造の道と一体になるので、神様が現在立っている所につながる道が続いているのです。分かりましたか? だから滅びることはないのです。
投入して忘れる犠牲の道をとっていく人は、その家族の中心者になります。みんなが犠牲しても、一番投入して、もっと犠牲になる者が中心者になります。国の大統領、国の総理という者は、その国のために自分のすべてを投入して、投入して、誰よりも投入して忘れ、投入した者がなるのです。分かりましたか?
それが、今まで若い者には分からなかったのです。投入して投入して忘れていくことによって、中心者になるということです。中心者がみんないいと思い、みんな中心者になりたいでしょう? しかし、無責任な中心者は悪魔です。破壊ばかりを生みます。
だから中心者は責任を持たなければなりません。統一教会の中心者は誰ですか? (お父様です)。お父様ではありません。そういう時は、先生です。統一教会の教祖様です。中心者は責任を負うのです。
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
今日はなにをしないといけないかをキチント確認し、順序良く一つずつ。
天一国2年天歴2月8日
今日のみ言
マタイ福音書6:21
『あなたの宝のある所には、心もあるからである』
一番投入して犠牲になる者が中心者になる
個人が、家庭に犠牲することを願う人はいますか? そうしなければ国が滅びます。七人家族であれば、七人のために犠牲になって、それが間違っていたとすれば大変なことです。
七人共々に、みんなが自分を尊重します。価値からいっても、平等です。七人を殺して自分一人がよくなるというのは悪魔です。それは地獄に直行する悪魔です。自分が犠牲になることによって、七人がみんなよくなるのです。七人共々に犠牲になるとすれば、その家が直行、直立で、縦的にすーっと上がるのです。垂直に飛び上がるのです。
こういう原則から見た場合に、当然、個人が七人の人々の前に犠牲になるということは、それは道徳社会の公的な道として、誰もそれには反対する者はいません。そのように犠牲になり、為に生きた場合には、神様の再創造の道、神様が成されてきた再創造の道と一体になるので、神様が現在立っている所につながる道が続いているのです。分かりましたか? だから滅びることはないのです。
投入して忘れる犠牲の道をとっていく人は、その家族の中心者になります。みんなが犠牲しても、一番投入して、もっと犠牲になる者が中心者になります。国の大統領、国の総理という者は、その国のために自分のすべてを投入して、投入して、誰よりも投入して忘れ、投入した者がなるのです。分かりましたか?
それが、今まで若い者には分からなかったのです。投入して投入して忘れていくことによって、中心者になるということです。中心者がみんないいと思い、みんな中心者になりたいでしょう? しかし、無責任な中心者は悪魔です。破壊ばかりを生みます。
だから中心者は責任を持たなければなりません。統一教会の中心者は誰ですか? (お父様です)。お父様ではありません。そういう時は、先生です。統一教会の教祖様です。中心者は責任を負うのです。
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
今日はなにをしないといけないかをキチント確認し、順序良く一つずつ。
天一国2年天歴2月8日
今日のみ言
マタイ福音書6:21
『あなたの宝のある所には、心もあるからである』
一番投入して犠牲になる者が中心者になる
個人が、家庭に犠牲することを願う人はいますか? そうしなければ国が滅びます。七人家族であれば、七人のために犠牲になって、それが間違っていたとすれば大変なことです。
七人共々に、みんなが自分を尊重します。価値からいっても、平等です。七人を殺して自分一人がよくなるというのは悪魔です。それは地獄に直行する悪魔です。自分が犠牲になることによって、七人がみんなよくなるのです。七人共々に犠牲になるとすれば、その家が直行、直立で、縦的にすーっと上がるのです。垂直に飛び上がるのです。
こういう原則から見た場合に、当然、個人が七人の人々の前に犠牲になるということは、それは道徳社会の公的な道として、誰もそれには反対する者はいません。そのように犠牲になり、為に生きた場合には、神様の再創造の道、神様が成されてきた再創造の道と一体になるので、神様が現在立っている所につながる道が続いているのです。分かりましたか? だから滅びることはないのです。
投入して忘れる犠牲の道をとっていく人は、その家族の中心者になります。みんなが犠牲しても、一番投入して、もっと犠牲になる者が中心者になります。国の大統領、国の総理という者は、その国のために自分のすべてを投入して、投入して、誰よりも投入して忘れ、投入した者がなるのです。分かりましたか?
それが、今まで若い者には分からなかったのです。投入して投入して忘れていくことによって、中心者になるということです。中心者がみんないいと思い、みんな中心者になりたいでしょう? しかし、無責任な中心者は悪魔です。破壊ばかりを生みます。
だから中心者は責任を持たなければなりません。統一教会の中心者は誰ですか? (お父様です)。お父様ではありません。そういう時は、先生です。統一教会の教祖様です。中心者は責任を負うのです。
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
天一国2年天歴2月7日
今日のみ言葉
父の祈りから
お父様!
人間の先祖の堕落によって
遠くなったあなたとの距離を縮めるために、永遠なる善の主管者として、また永遠なる理想の主管者としてイエス・キリストをこの地に送られましたが、お父様を身代わりして実体で来られたイエス様を主として侍ることが出来るようにしてください。
神様と真の父母のための侍る生活の中から
神様は、アダムとエバを造られ、彼らが希望の人格者になることを懇切に願われたのですが、そのアダムとエバが堕落してしまいました。堕落前から抱いてこられた慕わしい心情、堕落前から抱いてこられた希望の心情に対して、人類の先祖アダムとエバが裏切ることによって、神様の心には悲しみがしみわたるようになったのです。神様は、アダム家庭に対する悲しみの心情、憤りの心情を抑え、慕わしい心を再び取り戻すためにカインとアベルを立てられたのですが、彼らは、その希望を成してさしあげることができず、逆に悲しみだけを神様に与えたという事実を、皆さんは考えなければなりません。その後、千六百年という歳月を経て、再びノアを立てられました。しかし、結果は同じことになりました。そこからまた四百年を経て、アブラハムを立てられたのですが、やはり同様でした。慕わしく思った一人に出会って心情を分かち合おうとされたのですが、アブラハムも、やはり神様が抱かれた慕わしい心情を完全に解いてさしあげることができなかったのです。そのようにして、数千年間抱いてこられた慕わしい心情を悟らせるために、三代を経ながらヤコブ家庭を立てられたのです。しかし、
その家庭においても、完全にみ旨を成し遂げることはできませんでした。
イスラエル民族を立てられても、このような慕わしい心情を躊躇なく話すことができず、教えることもできず、支配することもできない立場で、彼らのあとから従っていかざるを得なかった神様の事情を、私たちは知らなければなりません。
慕わしく思ってこられた一つの民族形態を地上に立てられ、その民族が塗炭の苦しみに陥るたびに、神様は、その慕わしく思われる心に比例して苦衷を感じられ、悲しまれ、困難に遭われたという事実を、私たちは知らなければなりません。
長い歴史路程を経てこられる間、神様は、慕わしい心情を私たちの心に植えつけ、歴史に植えつけ、世界に植えつけるために闘ってこられました。それゆえに、私たちが接する物一つにも神様の慕わしさがしみ込んでいるという事実を知らなければなりません。私たちが対する食口にも、歴史的な神様の慕わしさがしみ込んでいるということを知らなければなりません。私たちが生きているこの国、この世界にも、神様の慕わしさがしみ込んでいるというのです。
- 1970年1月1日
-
おはようございます。
天一国2年天歴2月7日
今日のみ言葉
父の祈りから
お父様!
人間の先祖の堕落によって
遠くなったあなたとの距離を縮めるために、永遠なる善の主管者として、また永遠なる理想の主管者としてイエス・キリストをこの地に送られましたが、お父様を身代わりして実体で来られたイエス様を主として侍ることが出来るようにしてください。
神様と真の父母のための侍る生活の中から
神様は、アダムとエバを造られ、彼らが希望の人格者になることを懇切に願われたのですが、そのアダムとエバが堕落してしまいました。堕落前から抱いてこられた慕わしい心情、堕落前から抱いてこられた希望の心情に対して、人類の先祖アダムとエバが裏切ることによって、神様の心には悲しみがしみわたるようになったのです。神様は、アダム家庭に対する悲しみの心情、憤りの心情を抑え、慕わしい心を再び取り戻すためにカインとアベルを立てられたのですが、彼らは、その希望を成してさしあげることができず、逆に悲しみだけを神様に与えたという事実を、皆さんは考えなければなりません。その後、千六百年という歳月を経て、再びノアを立てられました。しかし、結果は同じことになりました。そこからまた四百年を経て、アブラハムを立てられたのですが、やはり同様でした。慕わしく思った一人に出会って心情を分かち合おうとされたのですが、アブラハムも、やはり神様が抱かれた慕わしい心情を完全に解いてさしあげることができなかったのです。そのようにして、数千年間抱いてこられた慕わしい心情を悟らせるために、三代を経ながらヤコブ家庭を立てられたのです。しかし、
その家庭においても、完全にみ旨を成し遂げることはできませんでした。
イスラエル民族を立てられても、このような慕わしい心情を躊躇なく話すことができず、教えることもできず、支配することもできない立場で、彼らのあとから従っていかざるを得なかった神様の事情を、私たちは知らなければなりません。
慕わしく思ってこられた一つの民族形態を地上に立てられ、その民族が塗炭の苦しみに陥るたびに、神様は、その慕わしく思われる心に比例して苦衷を感じられ、悲しまれ、困難に遭われたという事実を、私たちは知らなければなりません。
長い歴史路程を経てこられる間、神様は、慕わしい心情を私たちの心に植えつけ、歴史に植えつけ、世界に植えつけるために闘ってこられました。それゆえに、私たちが接する物一つにも神様の慕わしさがしみ込んでいるという事実を知らなければなりません。私たちが対する食口にも、歴史的な神様の慕わしさがしみ込んでいるということを知らなければなりません。私たちが生きているこの国、この世界にも、神様の慕わしさがしみ込んでいるというのです。
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